|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 帝 : [みかど] 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence ・ 西 : [にし] 【名詞】 1. west
恵帝(けいてい)は、西晋の第2代皇帝。生まれつき暗愚であり、西晋に混乱をもたらした。 == 生涯 == 初代皇帝武帝の次男〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P54〕であったが、兄の司馬軌が夭折したため後継者に早くから指名されていた〔。 泰始2年(267年)1月に立太子される〔。武帝は太子の司馬衷が暗愚であるということを改めて知り、廃太子を考えた。そこで、武帝は尚書の仕事を司馬衷にやらせることにした。この時、司馬衷の妃であった賈妃が、他人に代筆させて仕事を終わらせた(あまりに出来が良過ぎると代筆が露見するので、ぎりぎり及第点の文章を書かせたともいう)。これにすっかり騙された武帝は司馬衷を廃嫡しようとは考えなくなった。または騙されなくとも太子の側室の謝夫人が産んだ孫の司馬遹(愍懐太子)がいるので、希望の星である孫の繋ぎ役として太子のままにしたともいわれる〔。 太熙元年(290年)4月に武帝が崩御すると即位した〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57〕〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47〕。即位しても恵帝は相変わらず暗愚であったため、実際の政治は、武帝の皇后であった楊太后の一族の楊駿が執り行なうようになる〔〔。しかし、皇后となった賈氏の一族が実権を奪おうとした。結局永平元年(291年)3月に賈后が楊太后の一族とその与党を粛清した〔〔。さらに、その後政治を行なった汝南王司馬亮と重臣の衛瓘を楚王司馬瑋に殺害させ、6月に罪を司馬瑋に着せて殺した(広義にはここから八王の乱が始まったとされる)。この結果、賈后は実力者を一掃して実権を握った。その後、数年間は賈后の一族の専横の下、皇族の中で最も自制していた高密王司馬泰と下邳王司馬晃や名士張華の補佐を受け、波乱多き恵帝の治世にしては安定した時期を迎える〔〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48〕。 元康6年(296年)1月に司馬晃が死去した。8月から秦州・雍州で斉万年の乱が始まった〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P117〕。元康7年(297年)7月に戦乱と異常気象に関中で大飢饉が起きた。元康8年(298年)1月、詔により雍州の飢えた人々に食料が与えられた。元康9年(299年)1月、斉万年の乱が終息した〔。6月に司馬泰が死去した。 賈后は皇太子の司馬遹が自分が産んだ子ではないことを気にして、元康9年(299年)12月に司馬遹を廃太子し〔、金墉城にその3人の皇子らと共に幽閉した。同時に司馬遹の母の謝夫人は殺害された。そして、元康10年(300年)3月に司馬遹は賈后の手により23歳で殺害された〔〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58〕。 これに対して、同年4月に趙王司馬倫が賈后を殺害し〔、反対派を粛清し、自ら相国となる。これが八王の乱の始まりである。5月に皇太孫に司馬臧が、11月に皇后に羊献容がそれぞれ立てられた。永康2年(301年)正月に司馬倫は恵帝に迫って譲位させた〔〔。恵帝は太上皇とされ〔、金墉城(この時永昌宮と改称された)に幽閉された〔。なお、皇帝経験者で上皇の称号を贈られたのは、恵帝が最初である。皇太孫の司馬臧は殺された。 4月、斉王司馬冏らによって司馬倫が殺害され〔、恵帝が復位した〔。その後も皇族らの争いは長く続き、恵帝は、実権を握る皇族らの駒としかならなくなっていった。光熙元年(306年)11月、洛陽の顯陽殿にて、餅を食べて食あたりのため48歳で崩御した。或いは東海王司馬越に毒殺されたのだともいう。遺体は太陽陵に埋葬されたという。 八王の乱は恵帝の死の翌月、司馬越が新帝として恵帝の異母弟の司馬熾を擁立する事で収拾された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「恵帝 (西晋)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|